日本の伝統食品 醤油
  • 醤油の歴史
「ソイソース(豆のソース)」として、今や世界に進出している醤油。最近では、フランスの三ツ星レストランでも料理の隠し味に醤油を使っている例が少なくないといいます。また、ロシアやアフリカなど、「そんなところでも?!」というほど世界の食卓への浸透度も驚くほど。日本独自の調味料ながら、醤油は世界が歓迎する調味料として、その評価が高まっています。まさに日本の誇りの味ともいえるわけですが、現在、私たちが知っている「醤油」との付き合いは意外に新しく、始まりは鎌倉時代のことです。

日本の醤油は独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。日本の醤油は大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみと、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、醤油の赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。 醤油は日本料理の調理で煮物の味付けに使用したり、汁やたれのベースにしたり利用範囲が広い。また醤油差しに入れられて食卓に供され、料理にかけたり少量を浸す「つけ・かけ」用途にも使われる。ただし入念に調味された料理にむやみに食卓の醤油をかけるのは料理人に非礼とされるので注意を要する。

「しょうゆ」という語は15世紀ごろから用例が現れる。文明6年(1474年)成立の古辞書『文明本節用集』に、「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られているのが文献上の初出である。漢字表記の「醤油」は和製漢語で、上記「漿醤」から約100年後の『多聞院日記』永禄11年(1568年)10月25日 (旧暦)の条に初めて登場する。しかし『鹿苑日録』天文5年(1536年)6月27日 (旧暦)条には「漿油」と表記されており、「シヤウユ」の漢字表記はこちらの方が古い可能性が高い。また、初期には「醤油」の「油」を漢音読みして「シヤウユウ」と発音されることもあった。

醤の漢字が常用漢字に含まれていないことから、当て字に正を用いて正油と書く事がある。調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」で、醤油は「せうゆ」として「せ」に割り当てられているが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。醤油の別名、したじは吸い物の下地の意から、むらさきの別名の語源は諸説あり、醤油の色から来た女房詞、または江戸時代に筑波山麓で醤油が多産されたことからとも言われる。

醤油の起源

醤油のルーツは醤(ひしお)であるとされている。醤は、広義には「食品の塩漬け」のことを指す。紀元前8世紀頃の『周礼』で、「醤」という漢字が初めて使われた。文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。

たまり醤油の誕生

醤油メーカーのヤマサ醤油によれば、醤油の元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった覚心であり、覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとしている。 「たまり」が文献上に初出したのは1603年に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。

濃口醤油・薄口醤油の誕生

江戸時代初期までは、日本の醤油の主流はたまり醤油で、主な産地は上記の湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)に集中していた。しかし、たまり醤油は製造開始から出荷まで3年かかり、生産量が需要に追いつかなかった。 1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて醤油の一大消費地となっていた 江戸近辺において、1年で製造できる「こいくち醤油」が考案された。また1666年には、現在の兵庫県たつの市で円尾孫右衛門長徳が「うすくち醤油」を考案したと言われている。ヒガシマル醤油などの本社がある。

近代の醤油

明治時代初期では醤油産業自体、手工業的要素が強かったが、1882年(明治15年)以降に醤油の理科学的な手法の研究進歩に伴い、醸造技術及び企業形態の近代化が徐々に進んでいった。 醤油が生活必需品である事に目をつけた政府が「醤油税」を明治期に導入。これは大正期まで続いた。 第一次世界大戦が由来する好況の影響で、1918年(大正7年)頃には設備の近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われたことなどから、醤油は近代的な大量生産体制に移行していった。

第二次世界大戦前後に深刻化した食糧難に伴い主原料の大豆が確保出来ず、日本の醤油製造は危機的状況に陥り、生産方針も質の向上より量の確保が先決であったため本醸造製法の醤油は僅かな量しか作られず、その代用品として「アミノ酸醤油」が主流の時代を迎えた。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部が醤油の重要性を理解せず、大豆を酸で加水分解した方が効率良く製造できるとの指導を行ったとされ、苦肉の策として大豆の加水分解液を醤油に利用する方法が導入され、戦後しばらくの間はこうした醤油造りが続いた。1950年(昭和25年)、配給公団の廃止と価格統制の撤廃により、自由販売が認められたことで食糧事情の回復進展とともに、再び質の向上を目指した本醸造醤油造りが復活し、以降アミノ分解法等の製法が用いられることはほとんどなくなった。

20世紀後半の醤油

減塩食の流行や食事の欧米化に伴い、1980年代以降日本人1人当たりの醤油の消費量は減少傾向にある。 一方、日本において醤油を原材料とした調味料、めんつゆやたれの需要・消費量が伸びていることから、醤油出荷量の割合において1980年代に業務・加工用が家庭用を上回っており、世帯当たり支出金額では1990年代にめんつゆ・たれの購買額が醤油の購買額を上回っている。2000年代では、家事の負担軽減化を求める傾向や食に対して簡便性の高さを求める傾向からめんつゆやたれの普及が進み、料理の味付けにおいて醤油よりもめんつゆやたれを中心に使用する家庭が増加している[7]。 醤油の輸出量は、日本人海外渡航者数の増加や日本国外における健康食としての日本食の流行などにより増加していった。こうした状況を受け、キッコーマンは1957年にアメリカ合衆国に進出、製造工場を建設するなど、醤油は国際的な調味料として愛好されている。